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行方不明・毒殺・病死・事故死・冤罪工作
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22年前に山口県光市で起きた母子殺害事件で、元少年の死刑囚が求めた再審=裁判のやり直しについて、最高裁判所は死刑囚側の特別抗告を退ける決定をし、再審を認めない判断が確定しました。

平成11年、山口県光市で主婦の本村弥生さん(当時23)と、生後11か月だった娘の夕夏ちゃんの2人が殺害された事件では、当時18歳だった旧姓福田、大月孝行死刑囚(39)が殺人などの罪に問われ死刑が確定しました。

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1999年(平成11年)4月14日、山口県光市で光市母子殺害事件は発生しました。
被害者の夫である本村洋さんがいつも通り会社から帰宅しました。「おかえり」の声が聞こえないことに不審に思い、家の中に足を踏み入れていくと妻子の変わり果てた姿を発見してしまいます。

大きなショックを受けながらも警察へ通報をしたことでこの事件は日本中に報道されることとなったのです。夫が帰宅をした時、既に妻子の息はありませんでした。

妻の遺体は押入れに入れられ、娘の遺体は天袋に隠されていたのです。
妻子を襲った犯人は既にその場にはおらず、山口県光市周辺のみならず日本中がどこに居るか分からない犯人の存在に恐怖を覚えていました。

犯人・大月孝行はどのような目的で、どのような手順でこの事件を引き起こしたのでしょか。

犯人逮捕までの光市母子殺害事件の詳細を紹介していきます。

1999年4月14日、大月は「水道管の戸別点検に訪れた」という理由を口実に団地内の各戸を回っていました。そしてついに被害者となる本村さん一家が住む部屋へと午後2時30分頃に足を運びます。

事件当時、在宅していたのは本村弥生さん当時23歳・本村夕夏ちゃん当時生後11ヶ月の2名でした。


本村さんの家にも「水道管の点検」を理由に不信感を抱かれないように押し入ったのです。
大月孝行は弥生さんへの強姦目的で家へ侵入。

弥生さんは事件直前、生後11ヶ月の娘・夕夏ちゃんを抱きかかえながらテレビを見ていました。大月は、テレビに気を取られている弥生さんに気づかれないように背後から抱きついたのです。弥生さんを押し倒し、馬乗り状態になりました。

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強姦をしようとしますが、弥生さんは必死に激しい抵抗をしました。
当初は強姦目的で弥生さんを襲いましたが、抵抗を続ける弥生さんを見た大月孝行は「弥生さんを殺害してから強姦をしよう」という考えに至ったのです。


そして弥生さんに馬乗りになった状態で弥生さんの首に手を伸ばし、両手で強く締め窒息死をさせたのです。その後大月は遺体となった弥生さんの身体を使い死姦に及びました。

弥生さんを強姦するという目的は達したものの、傍で激しく泣き続ける夕夏ちゃんの声が大の耳に止まりました。赤ん坊の泣き声はとても大きく、響く声でした。大月はその声に危機感を覚えたのです。「付近の住民に聞こえてしまう」「犯行に気づかれてしまう」というような考えに陥り、事件発覚を恐れた大槻は夕夏ちゃんの殺害を決意したのです。

大月は本村さん宅の居間で夕夏ちゃんを床に叩きつけました。そしてそれでも泣き止まない夕夏ちゃんの首に紐を巻き、強く引っ張って締め付けて窒息死させました。まだまだ子供の成長を見届けたい新米母、そして生後11ヶ月という短い人生の幕が犯人・大月により閉じてしまったのです。

弥生さん・夕夏ちゃんを殺害した大月は弥生さんの遺体を押入れに移動させ、夕夏ちゃんの遺体を天袋に放置しました。そして居間にあった財布を盗み、本村さん宅を後にしたのです。

大月の殺害後の行動は驚きものでした。
盗んだ財布に入っていた金を使い、ゲームセンターでいつものように遊んでいたり、友達の家に寄りいつものように振舞っていたのです。「人を殺した」という事実から目を背けようとしていたのでしょうか。

それとも大月にとって人を殺すという行為は「なんでもないこと」だったのでしょうか。そして事件発生の4日後の4月18日、大月は殺人罪・強姦致死・窃盗の罪で逮捕をされることとなりました。

被害者である本村弥生さんと大月孝行には皮肉にも接点がありました。その接点が、この事件の標的に弥生さんが選ばれる理由にもなってしまったのです。「水道管の戸別点検に訪れた」という理由で団地内の各戸を回っていた大月は弥生さんが住む「本村家」を探していたのです。

男性が強姦をする女性を選ぶ理由はいくつかあります。
「襲いやすそうな女性なら誰でもいいから強姦したい」「思い通りにならないので好きな人を強姦したい」「どうせ強姦するのなら好みの女性を強姦したい」などです。

では、犯人・大月孝行と被害者・本村弥生さんにはどんな接点があり、どんな理由で弥生さんをターゲットとして犯行に及んだのでしょうか。

被害者である本村弥生さんの夫・洋さんは新日鉄住金光鋼管工場という会社に勤務をしていました。本村さん一家があったのは、新日鉄住金光鋼管工場の社宅アパートでした。
新日鉄住金光鋼管工場に勤める人の多くがこの社宅アパートに家庭置き、生活をしていたと思われます。

実は洋さんの勤める新日鉄住金光鋼管工場には、大月の実の父親も勤務していました。
被害者の夫である洋さんの視点から見ると、同じ会社で同じ目的に沿って働いている人物の息子が自分の妻を襲い、死姦に及んだということになります。

「もしこの会社に勤めていなかったらこんな事にはならなかったのではないか」という後悔に苛まれてしまったことでしょう。以前から親子で狙っていた


小さな子供を持つ主婦、そして生後11ヶ月という生まれて間もない赤ちゃんの命を無惨にも奪った大月の犯行は許されるものではありませんでした。
裁判官だけではなく、日本国民からの非難を大いに受けました。


大月の逮捕後に始まった裁判は多くのメディアで取り上げられ、多くの人が注目をしていました。未成年の少年が主婦と乳幼児を殺したという点で注目をされていましたが、被害者の夫である洋さんのこの事件への姿勢が更に注目をされた理由でもありました。

2000年3月22日、大月は殺人・強姦致死・窃盗の罪状で起訴をされた大月は渡辺了造裁判長が勤める山口地裁で行われた第一審で「無期懲役」の判決が下されました。

この判決を受けた被害者夫・洋さんは「被告が社会復帰をした場合、私がこの手で大月を殺す」と語っています。


そして2002年3月14日、広島高裁で行われた第二審判決も一審と同様「無期懲役」の判決となったのです。被害者遺族は犯人の死刑を訴えていましたが「無期懲役」という判決が下されてしまった理由には「被告が犯行時、未成年であった」ということが大きく関わっていました。

山口地裁で第一審が行われた際、夫・洋さんは「傍聴席が少ない、遺影を持ち込ませてほしい」と発言をしましたが「裁判は裁判官・被告弁護人・検察官の三者で行うものであって被害者は関係ない」という言葉を投げられたといいます。

第一審での大月は冒頭に真摯に謝罪をしていました。
それも「無期懲役」の判決になるきっかけともいえます。夫・洋さんはこの行動に対し「あの謝罪はパフォーマンスに過ぎない」と第二審で批判をしていました。

第一審・第二審と「無期懲役」の判決が下された大月でしたが、2006年に最高裁が広島高裁の判決を破棄しました。そしてその後、審理を広島高裁へと差し戻したのです。

最高裁は「判決の中で一審・一回目の控訴審において、酌量すべき事情として述べられた殺害についての計画性のなさ・被告人の反省の情などで、消極的な判断をしている」としたのです。


2007年には差し戻し審が開かれ「殺意・強姦目的」などを否定した大月側でしたが、遺族側の意見陳述が行われ、遺族側は大月に対する極刑を求めました。

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そして10月18日には検察側の最終弁論が行われ死刑を求刑しました。2012年2月20日には、死刑判決が確定することとなりました。被告人側は判決訂正の申し立てを行っていましたが、3月14日付けで申し立てを棄却。

そして2012年3月16日、光市母子殺害事件の犯人・大月孝行は正式に死刑が決定したのです。
光市母子殺害事件で逮捕をされた大月は未成年だったということもあり、すぐに精神鑑定が行われることとなりました。精神鑑定の結果は「大月の精神年齢は12歳程度」であったと発表されました。

そして最高裁の宮川裁判官は「同じ年齢の少年に比べ、精神的・道徳的な成熟度が著しく低い」と発言をしたのです。その発言がされたのは、大月の言動がきっかけでした。大月の裁判での言動は耳を疑うものばかりでした。

「本当に18歳の少年が話している内容なのか」と疑う人も多かったはずです。そんな大月を作り上げてしまったのは、彼の生い立ちが深く関係しているのではないかと言われています。

光市母子殺害事件の犯人・大月孝行の弁護を勤めたのは「安田好弘」という日本の弁護士でした。第二東京弁護士会に所属をしています。安田好弘は1947年12月4日に兵庫県で生まれました。

1980年に弁護士となり、多くの事件で弁護人として活躍をしてきました。弁護士になった後は、自宅には帰らずに事務所で寝泊りして仕事をこなすほど、弁護士に命をかけているような人物でした。

安田好弘はマスメディア・テレビなどの出演依頼がきてもほとんど断る、マスメディア嫌いとも言われています。「弁護に付いた人の味方」とされ、裁判に立ち向かってくれる弁護人は多くの人にとって大きな助け舟でもあるでしょう。

ですが安田好弘は世間で「悪魔の弁護人」と囁かれているのです。

安田好弘は悪魔の弁護人と多くの人々から囁かれています。悪魔の弁護人とは「少数派の意見を尊重・冤罪の被害者を無くそうとしている人物」のことを指します。多数派の意見を尊重している側からすると「悪魔のような存在」なのです。

もし、事件が冤罪であるのならば「天使の弁護人」と呼ばれても良いでしょう。ですが、安田好弘が行っているのは「死刑判決を受けている人物に対して手を差し伸べる」まるで本物の悪魔のような存在なのです。

安田好弘が弁護を行ったことで多くの被害者達が悲痛な思いを受けてきました。そんな安田好弘が被告人の弁護を引き受けた事件の1つが、今回紹介している光市母子殺害事件なのです。

安田好弘が悪魔の弁護人と囁かれるようになったのは理由があります。大きな理由となってくるのは「死刑廃止主義者」であるということです。安田好弘は死刑が求刑された事件の刑事弁護を数多く担当した過去があり、死刑判決を受けた被告人たちを死刑回避へと導いています。

ここだけを聞くと「凄いじゃないか」と賞賛する声も聞こえてきます。が、それは犯罪を起こした側の声です。被害者側から見たらどうでしょう。安田好弘の姿は「犯罪者の罪を軽減させる仕事をしている悪魔のような人物だ」と思うに間違いありません。

大月の弁護人を担当した安田好弘は裁判で多くの主張をしました。「大月は母子を殺害する故意がなかった」と主張したのです。「大月は母親を亡くしたトラウマで弥生さんに優しくしてもらいたいと思い甘えて抱きついた。大声を出したので口を塞ごうとしたが、手がずれてしまって首が絞まってしまった」

「弥生さんを死姦したのはと「小説・魔界転生」の中での復活儀式のシーンを真似た。被害者が生き返る魔術だと思っていた。」「乳幼児を床に叩きつけたのは泣き止ませるため。あやす為に首に紐をチョウチョ結びしたが、きつく絞まりすぎてしまった」

「大月は18歳だが精神年齢は12歳ほどなので少年法適用は合法」と主張をしたのです。以上のことを当人である大月は一審・二審で一切供述しませんでした。理由は「馬鹿にされる、笑われると思ったから」だったそうです。

が、検察側の用意した証拠の手紙によってこれらの主張は「デタラメ」であることが判明しました。安田好弘はありもしない話を作り上げて、大月の死刑判決を覆そうとしていたのです。

大月孝行は当時、父親・母親・弟2人・祖母と大月の6人暮らしでした。現代の日本では一般的な家族構成と見て取れます。事件当時に母親だった女性は、父親の再婚相手ということもあり孝行本人との血縁関係がありませんでした。

大月孝行は1981年3月16日に大月家の長男として誕生しました。人は生まれるとき、両親・周囲の人々から喜ばれながらこの世に舞い降ります。大月が誕生をした際、父親・母親はどんなことを感じ、どんなことを考えていたのでしょうか。これからの大月の成長に希望を抱き、期待を抱いていてはずです。ですが、大月は生まれてから数年後には悲惨な人生を辿ることになりました。
孝行の父親は孝行が生まれる以前から、孝行月の実の母親に暴力を振るう生活をしていました。殴る、蹴るは当たり前だったといいます。女性の力が男性に勝てるはずがありません。母親は父親からの虐待に耐えることしか出来なかったのです。

自身の妻へと虐待をする男性の特徴は「束縛したがる」「自分の意向で物事を決める」「謝らない」「嫉妬深い」「疑い深い」「自分のことは棚に上げる」などがあります。そして「相手をコントロールしたい」「女性は従順であるべきだ」「自分に責任はない」というような考えを持ち合わせています。

そして実は、孝行の父親は結婚前に母親を強姦して産婦人科に入院させた過去があったといいます。それがきっかけかは定かではありませんが、その後に孝行の父親と母親は結婚をすることになったのです。

孝行が生まれる前までは母親に向けての暴力だけで留まっていました。そして母親は妊娠発覚後「子供が生まれれば暴力はなくなるのか」という安心感を持ったようですが、現実はそう甘くはありませんでした。

第一子である孝行が誕生をしてからも父親の暴力は収まらず、子供にまで暴力を振るうようになったのです。きっかけは孝行が暴力を受ける母親をかばうようになったことがきっかけでした。小さな身体で父親の力任せな拳を受けていたのです。身体だけではなく、精神的にも大きな苦痛を覚えたでしょう。

そして孝行の中で「父親という存在はこういう存在」という固定概念が植えられたことでしょう。小学校に入学する日に暴力を受ける母親を守ろうとした孝行を父親は、失神するまで暴行をしていたといいます。そして時には、浴槽に無理矢理押さえ込まれ溺れそうになったこともあったようです。

母親が自殺
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結婚をする前から、結婚をした後も、子供が生まれた後も、子供が成長をしても、孝行の父親の暴力は終わりませんでした。それどころか酷くなる一方だったのです。孝行の母親は父親の暴力により身体だけではなく精神もボロボロになっていきました。

そして精神病を患ってしまい、どんどんと悪化をしていったのです。治療の為、薬を服用していましたが精神病の悪化に伴い薬の量は急激に増えていきました。薬の量が増え始めた頃、孝行の母親は自殺未遂を繰り返すようになってしまったのです。

そして1993年9月22日、孝行はまだ中学1年生でした。最愛の母親である女性が自宅のガレージで首を吊り自殺をしました。自殺の理由は夫からの暴力だったのではないかと言われています。

父親の再婚後、孝行は家出を繰り返すようになりましたが高校を無事入学、そして無事卒業を迎えました。卒業と同時に孝行は、水道配管設備会社に就職をしました。晴れて社会人となった孝行でしたがその後、日本中が震撼する事件を引き起こしてしまうのです。

これまでに父親の暴力、母親の死という悲惨な人生を歩んできた孝行でしたが、すぐに就職をした孝行には働く気持ち・これからの将来を充実させようという気持ちがあったのでしょうか。少なからず、未来を見据えていたことは事実なのではないでしょうか。

孝行には弟が2人居ました。一人は血の繋がった2つ年下の弟、そしてもう一人は継母と実父の間に生まれた弟です。血の繋がった弟は事件発覚後当時高校2年生でしたが、行方不明となっており実父でさえも連絡が取れない状態が続いているようです。

弟たちは兄が行った凶悪事件にどのような感情を抱いていたのでしょうか。実の弟に関しては、事件発覚あと行方を眩ませていることから「この家族から距離を置かなくてはいけない」「この家族とは一緒にいる事は出来ない」という判断をしたのでしょう。

孝行には弟が2人居ました。一人は血の繋がった2つ年下の弟、そしてもう一人は継母と実父の間に生まれた弟です。血の繋がった弟は事件発覚後当時高校2年生でしたが、行方不明となっており実父でさえも連絡が取れない状態が続いているようです。

弟たちは兄が行った凶悪事件にどのような感情を抱いていたのでしょうか。実の弟に関しては、事件発覚あと行方を眩ませていることから「この家族から距離を置かなくてはいけない」「この家族とは一緒にいる事は出来ない」という判断をしたのでしょう。

大月孝行の裁判中、養子縁組により福田姓から大月姓へと変わりました。多くの人々が「どうして極悪人の養子縁組に?」「なんで名字が変わったんだ」「どんな人が養子縁組したんだ」と疑問を抱きました。

夫の家庭内暴力で人生狂わせられる人がいる。

大月孝行と養子縁組を組んだのは、大月純子という女性です。どうして彼女は事件の犯人である大月孝行と養子縁組になることを決めたのでしょうか。

そしてこの女性はどんな人物なのでしょうか。この事件を生で見ていて疑問を抱いた方々の為に、そしてこの事件をはじめて知った方々の為に紹介をして参ります。

大月純子は1970年に神戸で生まれ、現在日本基督教団牧師を勤める女性です。1997年から広島県に在住しており、いくつかのセクシュアル・マイノリティのコミュニティに携わっています。理解を深め、広める為に講演会を開いたり、ワークショップの企画などを行っています。

「わたしたちの性と生を語る会・広島」代表・「ジェンダー広島」運営スタッフ・「男女共同参画を考える会ひろしま」共同代表です。どうしてこのような人物が、悲惨な事件を引き起こした犯人の養子縁組になることを決意したのでしょう。それには大きな目的があったようです。

大月純子はこの事件の犯人が大月孝行だと知ってから、孝行を支援していました。死刑判決が確定した後、家族以外の面会が出来なくなってしまったことをきっかけに孝行をこれからも支援するという意味でも、大月純子は孝行との養子縁組を結んだのです。養子縁組を結んだ後面会を続けて支援を続けていました。精神的にも孝行を支えていたといいます。支えていくうちに、孝行は改心しクリスチャンになったという噂もあります。

そして大月純子は死刑の撤廃を望む人物でもありました。孝行を支援する気持ちが彼女を動かしたのでしょう。そして、大月純子は反日思想でもあるといわれており、在日と疑惑を持たれている孝行を助けたかったのでしょうか。

大月孝行は現在、広島拘置所に収監されています。広島拘置所というと、日本では数少ない死刑執行場所が備えられている拘置所になります。外堀には1808年頃の広島の地図・当時の生活習慣を描いた江山一覧図を参考にして描かれた壁画が、高さ2m・長さ190cmに渡って描かれています。

広島拘置所には多くの死刑囚が収監されています。2004年から2009年にかけて連続不審死事件を起こした上田美由紀死刑囚・福山市女性強盗殺人事件を起こした西山省三死刑囚・広島連続保険金殺人事件を起こした大山清隆死刑囚・大牟田4人殺害事件を起こした北村實雄死刑囚です。

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制裁代行人
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男性
誕生日:
1987/03/15
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復讐屋
自己紹介:
「別れた夫、妻に復讐をしたい!」「会社の上司を懲らしめたい!」「騙した相手に制裁を!」

「散々いじめてきた相手に懲らしめたい!」
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